懐かしの富山市民プラザ、ホテルのぼるや

富山城、千歳御殿門


光岡自動車のさんのある富山市は高知からは随分と遠い土地ではありますが、実は馴染みのある懐かしい場所とも思っているのです。そもそも自分達の「山岸姓」のルーツが北陸にあるそうで、高知県では山岸の名前は、こじゃんと(とても)少ないのですが北陸地方に行くと結構おられるのです。山岸家も奈良県、大阪天王寺、そして高知へと移って来た歴史がありますので、もしかしたらその前のご先祖様たちは北陸やったのかも知れません。


加賀梅鉢瓦


自分は城好きで訪れた土地に城跡などあれば必ず行くのですが、富山城の唯一の遺構としてある千歳御殿門(東大の赤門と同じ形式の門だそうです)の瓦屋根には家紋の加賀梅鉢が見えます、そういえば山岸家も家紋は同じ加賀梅鉢ですぞね。


富山市民プラザ


まあ、それはさておき馴染みの場所というからには、名字のルーツだからというワケではありません。実は、毎年一回富山市の市民プラザという所で竹細工、竹製品の大売り出しをさせて頂いていたのです。もちろん販売させて頂いていたのは竹虎だけではありません、全国各地から特産品が集まっちょりました。いつから、あのような大きな催事に参加させて頂いていたのかは定かではありませんが開催されるのは、ちょうど8月、真夏の最高に暑い最中ぜよ。催事に行かなくなって、もう20年近くになるかと思いますが今でも夏になれば思い出す事があるのです。


北陸と言うても富山は、もしかしたら高知より暑いのでは?と思えるようなムシムシとしてコンクリートの歩道がまぶしいくらいの照り返しの強烈の陽射しの中、涼と珍しい地方の産品をもとめる沢山の方がご来場いただき、それは大変な売り上げがあったのです。自分が売り出しに行くようになってからでも10tトラックと4tトラックに満載して行く荷物が、帰りには空箱ばかりになる大盛況で竹製品が多くの方の生活の中で役立っていることを肌で感じて嬉しくなっていましたぞね。


富山市民プラザ前電停


それにしても、20年という月日の流れを感じるのは市民プラザ前を走る路面電車ぜよ。竹虎が毎年来ていた時には、電車は通っておらず少し広場のようになっていて、ここに大きなテントを二張りほど借りて館内に置ききれない商品を並べていたのです。エアコンもない外の売り場では汗だくでランニング姿になって販売する職人の姿は今でもハッキリ覚えちょります。


変わりゆく街並


さて、そんな売り出しは確か三日間か四日間の日程だったと思います。宿泊は、いつも決まってすぐ目と鼻の先にあるホテル「のぼるや」さんでした。せっかくなので久しぶりに少し歩いてみますと何と昔のホテルは無くなっていて、確か跡地と思われる場所には大きな新しいホテルが建設されていて、オープン間近のような形やったのです。


懐かしい思い出の地に、あの頃の事をひとつひとつ思い出しながら行きます。自分は一体何ほ探しゆうがやろうか?販売の中心だった元気満々の母の笑顔やろうか?竹を求めて次から次へとやって来られる、あの日のお客様?いやいや、大事な事を忘れちゅう。


竹虎の復興


あれは自分が大学四回生の時の事やった。竹虎の工場と店舗が全焼して何もかも無くなった大火災がありました。ちょうどそれが、この富山の売り出しの2週間前の事やったのです。普通なら、とても遠く富山の催事どころではありません。当時50名ほどいた社員や地域のお手伝いの方など総出で後片付けなどに追われている、ごった返しの状態でした。


けんど、そんな中、こんな時にだからこそ、行かねばと奮い立ち、外の土場に停めてあり運良く焼け残った10tトラックに緊急に借り受けた竹細工や竹製品を満載して富山に走って行った祖父の後ろ姿やろうか?


あの夜の居間、家族が全員揃っていた中で、「どうして今、富山に行かねばならないのか?」二代目義治が、ゆっくり話した台詞、息づかい、表情、一言一句忘れてはいない。


この街には、竹虎のルーツが今でも生きづいちゅうがです。


コメントする