高祖父、山岸安兵衛の本政寺奉塔

山岸安兵衛の本政寺奉塔


高祖父、山岸安兵衛は弘化3年(1846年)9月15日生まれで大正6年(1917年)に亡くなっていますが、亡くなる2年前の大正4年に建設した奉塔が大阪中央区の本政寺に残されちゅうのです。当時、これだけ立派な奉塔を立てられるというのは大きな商売をされていたのか何かだとも言われますので是非知りたいと、山岸家の家系図を調べられている遠縁の方に尋ねてみましたが随分と昔の事でもあり残念ながら色々と調べてみても分からなかったようです。


山岸安兵衛の本政寺奉塔


しかし今回、本政寺に移る前の菩提寺であった堺市月蔵寺への明治39年7月25日の永代お膳料や明治42年5月の常燈明、御膳料、そして大正4年の本政寺への奉塔建設に係る諸費用代など拝見させて頂きますとまったくお会いした事もない高祖父安兵衛の足跡を、ほんの少しだけでも垣間見られた気がして嬉しく思うがです。


山岸安兵衛の本政寺奉塔


竹虎は明治27年(1894年)に、その安兵衛の次男であった曾祖父、宇三郎が大阪天王寺にて創業しました。今は普通にどこにでもある洋傘ですが昔の日本は当然のことながら和傘でした。古い記録として残っている洋傘は文化元年(1804年)という事だそうなので当時も洋傘は少しはあったのかも知れませんが、まだまだ和傘、番傘が主流の時代です。傘は竹製でありましたので宇三郎はその材料を扱う竹材商として商売を始めたのです。


日本唯一の虎斑竹


しかし、創業間もないうちから虎竹と出会い、その竹の美しさに魅了され後に「竹亀」だった屋号が「竹虎」に変わってしまうほど虎竹にのめり込み、虎竹だけを専門に扱う竹屋になっていったと聞かされていました。何度も何度も大阪から虎竹の里に仕入れに来ているうちに知り合ったのが一番の山主の娘イト、自分の曾祖母になります。(つづく)


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