不思議な夢
昨夜、珍しく父の夢を見ました。珍しいというか、初めてのような気もします。懐かしい竹の職人さんたちと共に六ツ目編みの背負い籠をそれぞれに担ぎ、何かをしているようでした。若い頃の父は、「元気にやりゆうか?」と言って歩いて行きました。
不思議な夢だと思い、古いアルバムを見返しました。この写真が撮られたのは昭和30年代後半、自宅前で当時発売されたトヨタ・コロナに寄りかかる父が写っています。杉皮の屋根でできた門をくぐると、正面に平屋の質素な家があり、左手には社員寮がありました。父の後ろにあるのは車庫を兼ねた竹材倉庫です。小さい頃は、あんなに大きくて仲間と走り回って遊べるほど広々とした建物だと思っていましたが、思いがけず小さくて驚きます。
日本の竹産業の衰退
この頃までが、日本の竹産業が景気のピークを迎えた時代でした。竹虎も輸出用の竹釣り竿を大量に製造していて、3交代で24時間操業をしていた時代です。ところが、プラスチック製品の普及で、それまで竹製だったものが取って代わられ、竹の需要は落ちていきました。そこに、真竹の全国一斉開花が起こりました。竹材の供給ができなくなり、代替品や輸入製品の拡大が一気に加速したのです。
さらに竹虎にとって痛手になったのが、1973年のドルショックです。円高が急速に進み、虎竹や黒竹で輸出用に製造していた竹製品が大打撃を受け、撤退せざるを得なくなりました。ボクはまだ小さくて訳が分かりませんでしたが、家庭での夕食が一品減り、いつ売り払わなければならないか分からないので、新品の勉強机も大切に使うようにと母から諭されたことは、今でもはっきりと覚えています。
ここから竹虎、いや日本の竹産業の苦難の道が始まりました(笑)。竹は斜陽産業となり、人々は竹を忘れ、ついにボクが入社して数年経った頃には倒産の危機が訪れます。何とかしたいと思ってあれこれやりましたが、全てが裏目に出て、何をやってもダメな男だと誰にも相手にされません。けれど、何度辞めたい、竹から離れたいと思っても、離れることができないのです。
日本唯一の虎竹
どうしても納得できない事がありました。日本にここにしか生育しない、素晴らしい虎竹がなぜ評価されないのか?
この疑問がずっとあって、謎が解けるまで止めるわけにいかないな、と思っていたのかも知れません。だから、やはりボクは大いなる竹に助けられていると感じています。全てを投げ出さず、どういうわけか倒産も廃業もせず、おかげで何とか会社を続けることができています。美しい虎竹の山々を眺めるたびに、心なしか竹たちも喜んでいる気がしています。
今も息づく精神
もちろん、すべては父や祖父、そして先人たちが虎竹の里を守り続け、繋いでくれたおかげです。当時の虎竹の里では誰も持っていなかったという自家用車の横でポーズをとる父の写真を見て思います。このトヨタ・コロナは、おそらく父だけでなく、家族の自慢だったのかもしれません。ナンバープレートの上に「山岸竹材店」と書かれているのはご覧いただけますでしょうか?
その精神は、今もここに息づいています。
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