竹虎の歴史

竹虎の歩み
竹虎は日本唯一の虎斑竹(とらふだけ)を中心に竹材や竹細工を取り扱う竹材専業メーカーです。明治27年(1894年)に初代である山岸宇三郎が大阪市天王寺区で竹材商として創業した時から始まった竹虎の歴史、これまでの歩みをご紹介させていただきます。
日本唯一の虎斑竹と出会う【初代 宇三郎】

明治27年、大阪にて創業
この時代、竹は人々の生活に深く根ざし欠かせないもので、どんな小さな村にも竹細工職人が一人はいると言うような時代でした。竹は農漁業、建築用材、庭園材等、日々の暮らしや仕事の道具として様々な用途に利用されており、多方面に竹を供給する竹材商として初代 宇三郎は商売をはじめました。
そして、宇三郎が良質の竹材を全国をまわり探すうちに出会ったのが、竹の表面に虎模様の浮き上がる虎斑竹(とらふだけ、虎竹)でした。虎竹は土佐藩の年貢として山内家に献上されたという記録も残る銘竹でありましたが交通の難所と呼ばれていた安和の土地柄と藩令による禁制品のため広く知られずにいたのです。
大阪から四国の高知までは現在とは比べものにならないくらい遠い遠い土地でありましたが、初代が足しげく通った竹への情熱は一体何だったのでしょうか?今となっては確かめる術もありませんが、宇三郎は虎竹の仕入れに度々訪れる虎竹の里安和の山主の娘を妻に娶りました、これが竹虎四代目からみてのイト曾おばあさんです。

牧野富太郎博士が命名「土佐虎斑竹」
宇三郎は神戸にも竹工場を持ち大正4年(1915年)より釣竿製造をはじめ海外輸出も盛んに行うようになりました。当時日本の竹は品質、加工技術共、ヨーロッパで高い評価を受けていて港のある神戸には数社の竹製造メーカーがありました。また、世界的な植物学者であられる牧野富太郎博士が虎竹を「土佐虎斑竹」と命名したのが翌大正5年(1916年)の事です。
調査に訪れた虎竹の里で牧野博士と宇三郎曾じいさんとは会った事があったのでしょうか?考えただけでワクワクしてきます。実は、虎竹は何故かここ安和の虎竹の里でしか成育しない不思議な竹なのです。他の土地では美しい虎模様にならない事を牧野博士も下記のように記していますので引用させていただきます。
「はちくの変種にて、高知県高岡郡新正村大字安和(現在の須崎市安和)に産す。凡の形状淡竹に等しきも、表面に多数の茶褐色なる虎斑状斑紋を有す。余は明治45年自園に移植し、目下試作中なるも未だ好成績を見るを得ず。」
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京都大学からの調査
いつの頃からハッキリしていませんが京都大学から植物研究の学者の方が2回、虎斑竹の調査に来られています。どうしてこの安和の虎竹の里の地でしか成育しないのか、虎模様がつかないのか?土中にある特殊な細菌のせいではないかと、その時の調査では結論づけられたそうですが、実は今でも本当の理由は解明されていないのです。

竹虎の再建【二代目 義治】

株式会社設立
昭和に入ると二代目 義治も家業を手伝うようになりました。虎斑竹が何故かこの安和の谷間でしか成育しないという事で杉や檜の植林の替わりに虎竹の成育と生産を地元山主と協力し竹林面積を広げていきました。大阪では商家の丁稚のことを「ぼんさん」と呼んでいましたが、ぼんさん含めて10名の天王寺にあった竹工場は高知から舟で運ばれてくる虎竹で大忙しの毎日でした。ところがそんな山岸竹材店に暗い戦争の影が忍びよります。
二代目 義治は昭和16年(1941年)召集され昭和21年(1946年)に復員してくるまで竹の入荷もなくなり竹材店は休業状態でした。跡形もなく焼け野原となった工場を見て義治は母の実家があり家族の疎開先でもあり、また竹の仕入れ先でもあった安和の虎竹の里に移る決心をします。創業当初の先代からの屋号「竹亀」から心機一転「竹虎」として夫婦二人だけの再建開始が始まりました。
ゼロからのスタート、お盆も正月もなく働いた当時の二代目 義治、タネ子夫婦の苦労が今の竹虎の礎を築きました。苦労のかいあって昭和26年(1951年)10月6日株式会社設立、今の株式会社山岸竹材店が誕生しました。


竹製品の製造開始
取り扱い商材も当初は製竹した竹材そのものを扱っていましたが、徐々に竹製品の製造を行うようになりました。縁台や庭園用品、生活用品にはじまり、竹花籠や茶華道具なども製造しては県外の問屋さんにまで卸しにいきました。
輸送手段も舟から鉄道、トラックへと変わり毎週2台の10トン車が交互に県外に向かって走るようになりました。
竹虎の大展示場「虎竹苑」の完成

竹生産者向け展示販売場
昭和45年(1970年)3月二代目 義治が安和の地域への報恩と竹生産者のみなさんに虎竹が全国でどのような竹製品になりお客様の元に届けられているのか知ってほしいとの思いから、竹製品、竹細工を集めた展示販売場を完成させました。
展示場のお披露目をした際に二代目 義治が関係各位の送付した手紙を下記に掲載します。
謹啓
私は過去二十年来当地の皆様の厚い御庇護を受け絶えざる御支援を頂いております事を常々心に銘じ竹こそ私を生かす道、私はこの道を征くの信念で誠心誠意一貫して竹材専業メーカーとして努力を続けて参りました。然しながら時としては竹材のある銘柄に関しては全く不振で売れないこともありましたが
「人の行く裏に道あり花の山」
の例へ積極的な研究と努力次第では却ってその銘柄の原竹不足と云ふ嬉しいしい花の山を見出す事も御座居ます。竹は草でもなく、木でもなく竹そのものです。私は私と共に歩んで来た竹を心から愛しております。「竹はセキモソウ(妬母草)とも云ふそして竹の子は生えると一旬と六日にして母とひとしくなる」と中国では昔から伝えられて居ります(五台山牧野博士文庫本草綱目に記されてゐます)竹と云ふ字は竹の葉の形です若竹の誇り高い生々しさわまことに魅力あるものですが形ばかりではなく竹のもつ優れた生長力弾力に富み、いかなる大雪にも折れないで低姿勢で雪を凌ぐ強い忍耐力、そして眞直ぐに正しく育つ素直な性格や大地にしっかりと四方八方に根を張る地下茎の頑強さそれに生えた年内に自分のからだを肥さず枝も遠くへ伸ばさないで自分でつくる生食分は自分の生きる限度にとゞめてあとはすべて子供の生長にまわしひたすら子孫の繁栄をはかる誠に珍しい健気な働きもの、この竹に対するやむにやまれぬ愛着が、そして私達の生活に溶け込んでゐる竹への親しみと広く一般の人々に一層竹への御理解を深めて頂ければと不本意な設備ではありますが此度竹の展示場を当社隣接地に設置致しました。
またどんなことでも最初にするといふことはむつかしい事ではありますが御利用下さる皆様の立場になってすることには間違いはないと確信致しまして竹の利用とはどんなものか、一見して御理解頂けるべくまたどんな事でも揃い創作し製造する日本の竹材専業メーカーとして開設致した次第で御座います。創業以来七十数年竹材の製造加工にただただこれだけに黙々と努力を続けて参りました。ここに平素の御愛顧を心から御礼申し上げますと共に重ねて展示場設置を御案内申上げます。竹材の製造とは製品とは如何なるものか百聞は一見にと申します何卒御暇の節は是非御気軽に御来居下さる様御待ち致しております。
昭和四十五年三月
株式会社 山岸竹材店
社長 山岸義治
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二代目 義治が考案!「虎竹縁台」
ロングセラー商品「虎竹縁台」は二代目 義治が考案しました。誕生してから数十年の月日が流れましたがシンプルでスタイリッシュなデザインが今でも愛されています。
時代の変化【三代目 義継】

竹虎の苦難
昭和50年(1975年)には社員数66名、年間虎竹取り扱い数8万束を誇っていた業績も三代目 義継の代になると安価な海外からの竹製品の輸入、日本人の生活スタイルの変化などがあり少しづつ卸売にもかげりが見え始めるようになってきます。
そんな矢先の昭和59年(1984年)夏、本社・本店が全焼するという大火災が発生します。

「竹の声」に導かれる
この時、ちょうど大学から帰省中だった義浩(後の四代目)が火事の第一発見者となり、この時聞いたという不思議な「竹の声」に導かれ翌昭和60年(1985年)竹虎に入社。四代目への道を歩み始めることになります。下火になりつつあった竹材販売を物産展やデパートなどでの竹製品の販売に切り替えようとしましたがバブルが崩壊。百貨店業界の売上が低迷するのと同様に竹虎の売上も落ちていきました。竹が人々から忘れられ竹製品は日々の暮らしから遠のいてしまったようでした。


再建
何とか竹工場、店舗を再建し、再び歩みを進め始めました。駐車場には観光バスが何台も停まり大勢のお客様で賑わい、現在では製造していない門松も大量に作っていた時代です。


竹職人や内職さん
かつて工場では沢山の竹職人や内職さんが働いていました。
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イギリスBBC放送
虎斑竹の事をどこで聞きつけたのか、1985~1990年頃の間にイギリスのBBC放送が一度取材に来たこともありました。虎竹の竹林はもちろんですが、店内をくまなく1日中かけて撮影していきました。
21世紀は竹の時代【四代目 義浩】

無限の可能性を秘める竹
平成17年(2005年)に四代目 義浩が代表取締役社長に就任。竹の業界は衰退の一途をたどるばかりでしたが、その一方で竹虎では「21世紀は竹の時代」だとずっと言い続けてきました。なぜなら、竹は成長はとても早く何と3ヶ月で親竹と同じ大きさになり、たったの3~4年で製品に加工できるという他の資材にはないサイクルの早さがあったからです。
持続して活用することのできる唯一の天然資源ならではの強みを持っています。まさに無尽蔵の資源といっても過言ではなく環境問題が言われる中、花籠や竹ざるといった伝統的な竹細工や工芸品にとどまらず、竹の持つ抗菌性、消臭性という機能性や竹繊維の高度利用、竹パウダーの飼料など食への活用、竹炭まで含めて考えた時の農業利用、畜産利用等、無限の可能性を秘めています。

インターネットから情報発信
そんな竹の魅力と日本唯一の虎竹の事を、竹を忘れかけている日本で一人でも多くの方に知ってもらいたいと熱い思いでインターネットからの情報発信を始めたのは平成9年(1997年)でした。当初はまったくアクセスもなかったネットショップにも平成12年(2000年)を境にして少しづつアクセスも増えていき、翌年平成13年(2001年)5月「虎斑竹専門店 竹虎」としてインターネットでの営業を本格的に開始しました。
昔から延々と続いてきた竹文化を守ると同時に、新しい竹文化を創っていく。そしてお客様に幸せになっていただきたい。そんな思いの中、インターネットショップが認められ数々の受賞をいただきました。そして田舎の小さな竹屋としてはまさに奇跡とも呼べるできごとがおこるのです。

新しい取り組み
それが平成20年(2008年)のユニクロとのコラボTシャツでした。インターネットの可能性を信じ、情報発信を続けていることが認められたと思いますが海外の大都市、そして日本中のユニクロにも竹虎のロゴマークがならんだことに感激しました。平成13年(2001年)からは若い方にも竹に関心を持ってもらいたいとインターンシップを開始。その後も、環境に優しい二人乗りの電気自動車を日本唯一の虎竹を装飾した「竹トラッカー」やエンジンを搭載せず重力で走る「REIWA-125号」を製作するなど新しい取り組みもおこなっています。

今まで、そしてこれからの100年
生活様式の変化や輸入品の増大によって竹材や竹製品販売がが立ち行かなくなった時、売り上げを上げるために色々な事にチャレンジしましたが何をやっても失敗ばかりでした。世界中探してもないようなオンリーワンの竹達が「俺たちがここにいるだろ!」と言葉をかけてくれていたのにも気づかず、暗い閉塞感の中で迷ってばかりだったのです。それでも先人から100年も繋いできた虎竹を守りたいと...いや違います竹の他に出来ることなど何もありません。だから仕方なく背水の陣で全く理解できなかったインターネットの活用をはじめました。
インターネットの素晴らしさは世界が広がる事です、それからは運命的な出会いの連続、本当に数多くの方に助けて頂いて何とか今日という日を迎えられています。創業以来百数十年という歴史と日本唯一の虎竹は、どちらも先人から自分たちから託されたものです。お陰様で新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど沢山のマスコミ掲載をしていただけるようになりましたが、それも初代から二代、三代と竹虎が続いてきたがゆえのたまものです。自分達にしか提供できない新しい竹あり方、新しい価値をお届けして竹で人を笑顔にし続ける、これからの100年へ。竹虎の挑戦はずっとずっと続いていきます。


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