真っ青な明徳の空に

一刻生涯


さて、明日3月1日の明徳義塾卒業式での卒業生代表スピーチに向けて何度か明徳に足を運び、懐かしい先生方にお会いさせてもらう中で、あの頃の記憶が、どんどん蘇ってきて、30年ブログ「竹虎四代目がゆく!」を書き始めて10年目になりますが、初めて明徳中高等学校在学中のお話をさせてもらいました。けんど、そろそろ今回で最後にしたいと思うちょります。まあ、今日だけは乗りかけた船ですので最後に、気弱で何をやってもダメダメな竹虎四代目少年が、その後どうなったか?ちっくとだけお話しさせてもらいたいがです。


試練の朝礼を吉田幸雄校長先生のお陰で何とかやり過ごした後、心配な事が次にやってくるのです。そうながです、明徳は、朝礼だけではなかったのです。実は全校生徒を集めた夕礼という夜の集まりも毎晩やりよりましたので、ここでも寮長が前に出ての号令をかけねばなりません。そして、それは持ち回りで確実にやってきます。


こんなに切羽詰まることは今までありませんでした。どうしたら良いか、こじゃんと考えました。けんど悪い頭で何を考えてもそんな良いアイデアはなく、結局したことは、人を真似ることやったのです。他の寮長がどんな声の大きさで、どうやって声を号令をかけているのか、はじめて真面目に聞きました。すると声の調子により人の動作は影響を受けゆうのが分かります。竹虎の全社会議では電話対応方針というのがあって、電話にでる声の高さはドレミファソの「ソ」の音で出よう、という項目がありますが、この音階というものですろうか?この声の高さも大切だと思いました。


まあ、けんどそんな事よりも男子生徒だけでなく、女子寮の女子生徒の番もあるのですが、さすが寮長に選ばれる皆さんです。一生懸命声を張り上げ、頑張りよります。やっぱりスポーツ倶楽部等で中心選手として頑張りゆう人は違う。男も女もない、後輩でも何でも関係ない、改めて凄さを感じました。ほんで思うたがです。そしたら自分との違いは何やろうか?一番思うたのは「やる気」「本気」ではないろうか?誰一人として逃げゆう人はいない。この朝礼、この夕礼で一番本気になっちゅうのは、前に立ち、全校生徒と向き合っている寮長やと気がついたのです。


ある方をお手本にさせていただく事にしました。その号令を思い出しながら何度か隠れて練習して、他の寮長のように自分からやる気で朝礼の順番を待ちました。実は、30数年経った今でもあの時の号令を再現できるのです。それが当時の明徳で、果たしてどうやったかは分かりません。気にしていたのは600名の生徒の中で自分だけやったかも知れません。けんど、面白いもんですちや、本気でやるようになると、今まで嫌だと思いよった朝礼や夕礼で前に出る事が待ち遠しく、本当に楽しくなってきたのには自分もビックリしちょったがです。


本気という詩があります。


「本気でやればたいがいの事はできる」


「本気でやれば何でも面白い」


「本気でやっていれば誰かが助けてくれる」


この時は、この詩の事など知らなかったのですが、後から知って、もしかしたら、あの時の事を言うているのかなあ、そんな風に納得したのでした。当時の厳しい明徳で寮長をさせていただけるなど、一生涯の中でも、二度と出来ない素晴らしい経験でした。今振り返っても大きな感謝の気持ちが湧いてきます。そんな機会をいただいたのは野中義一先生です。自分はこの一学期を過ごすために明徳に入学したとさえ思える程の最高のチャンスを何もなかった自分に与えてくれました。


ところが、そんな野中先生はその年明けすぐに急逝されたがです。連絡を受けた自分には、まったく信じられなく、声もなく何もできず立ち尽くすだけでした。先日の打ち合わせの折、その大恩ある野中先生の娘さんが明徳の事務所で働かれていると聞き、ご迷惑と思いながらも、たまらない思いでお伺いさせてもらいました。


「父も今のあなたを見て喜んでいますよ」


その言葉を聞いて、ボクがどれ程嬉しかったことか!吸い込んだ息がそのまま止まりました。そして、急いで校舎の外に出て、声を上げて泣きました。真っ青な空に明徳義塾の看板が浮かんで見えたけんど、空の上から見てくれよりますろうか?野中先生、あの時、寮長にしてくれて心配やなかったですか?他の先生方の反対を野中先生が言うてくれたがですろう?自分も先生が逝った年齢を少しだけ越しました。先生が明徳のために、こじゃんとやったように、自分も自分にしか出来ない事をこじゃんとやります。


吉田校長先生は、どう思われちょりましたか?号令もかける事のできない退学寸前の落ちこぼれをどうして、信じてくれちょったがですろう?ボクは、あなたのような人になりたいがです。あんなに大きな心で、人を真剣に思いたいがです。


まっこと、ありがとうございます!本当にお二人のお陰で今があるがです。


自分は明徳など入学することも考えた事もなかったけんど、導かれるようにして明徳に入り、6年間を過ごさせていもらって、吉田幸雄校長先生、野中義一先生に出会うて助けていただきました。田舎の小さな竹屋ですので何もできない、ちっぽけな人生ですろう。けんど日本にここにしかない竹で、ささやかではあっても一隅を照らす事は出来るはずです。それが自分の人生だと思うちゅうがです。


明徳生活6年間で最悪の朝礼

明徳グランド


寮長の仕事は、朝の起床のチャイムと共に始まるがぜよ。朝6時30分、明徳の谷間に鳴り響くと同時に飛び起きて廊下に出ると寮中央部に向けて走りだします。


「起床ーーーーー!起床ーーーーー!」


大声で叫びながら寮生を起床させてから、全員を廊下に一列に並べての点呼です。それぞれの部屋には部屋長がいて全員揃ってる事を報告します。点呼が終わったら掃除の時間ぞね。掃除は明徳生活の中でも、こじゃんと大切な要素のひとつだったと思います。そして、この時の寮長の仕事は「掃除をしない事」と教わりました。自らは雑巾も箒も持たず掃除をする寮生を管理する、今まで考えた事もない視点をここで持たせてもろうたと思うちょります。


掃除か終わってからの朝礼は全校生徒600名と教職員が全員参加してグランドではじまるのです。寮長を先頭に寮旗をなびかせながら列を組んで駆け足とかけ声で共に集まります。ここで寮長には大きな仕事が待っちゅうがです。それが全校生徒の前に立っての号令かけでした。


はじめて600名の前に立った時には頭が真っ白やったぞね。緊張しちゅう上に今までこんな事をした試しがないのです。倶楽部でも教室でも何の目立つこともできない生徒が、どういうワケか、シーンと静まりかえって整列した全校生徒の前に立っているのです。ただ、前に立ってる、それだけでも何とも言えない違和感と言うか、何かの間違いではないのかと言う雰囲気が伝わってきました。


「ヤスメ!」


「キヨツケ!」


「レイ!」


「ナオッテ!」


基本的に号令と言うても、そんなに沢山種類があるワケでもなく、これくらいの事なのですが、案の定それが全く上手くできません。


「あの号令の下手な男は誰...?」


「ダメなヤツは何をしてもダメ」


「あんな不良に寮長は荷が重い」


そんな声なき声がグサグサ聞こえてきます。明徳の朝礼は規律正しく、私語などもっての他なのです。自衛隊の行進や整列方法を参考にしていたりしましたので、まるで軍隊かと思うような整然とした朝礼なのですが、それが、今朝は初めて乱れちょります。


ザワッザワッ......


「山岸!お前には無理だから辞めろ」


ザワッザワッ......


「山岸!お前には無理だから辞めろ」


600人の視線が、そう言うている気がしました。やっぱり自分のような半端な男はイカンか...。何でも途中であきらめて来たけんど仕方がない、ここでも又負けるのか...。けんど、考えたら、そりゃあ、そうよ当たり前の事ちや。スポーツの花形選手でもなければ、クラスの人気者でもない、勉強が出来る優等生でもない、品行方正で先生に気に入られちゅうワケでもない。


「そもそも、ここに立っちゅう事が間違いぜよ」


明徳吉田幸雄校長先生


自分のような男にはこんな大役は無理なのだ。すっかり気弱になって横目でチラリ...。左側の朝礼台に立つ吉田幸雄校長先生を見上げました。


すると、どうやろうか...!?


校長先生は、ザワつく全校生徒を前にして、まったく何事もないように、いつものように微動だにせず真っ直ぐ前を見据えちょります。ずっと遠くを見ているような、その横顔を見てハッとしたがです。


校長先生は待ってくれよりました。こんな退学寸前で何をやっても出来ない生徒が次に出す号令を...!


「こんなダメな自分を信用してくれちゅう...!?」


目を閉じると、あの日の、あの横顔が、あの時の目が浮かんできます。ただただ、平常心でいる、横顔に助けられました。そして教えられたような気がしたがです。何を弱気になっちゅうがやろうか!?こんな事ではイカンぜよ!!!どうしゆうぜよ!


「十一寮の寮長は自分やろう!?」


こうやって、明徳高校三年の一学期は、自分にとって大きな大きな転換期となったがです。


誰もが嘲笑した、明徳寮長誕生

明徳義塾中高等学校


明徳には吉田幸雄校長先生と、もう一人片腕とも言える野中義一先生という二人の偉人がおりました。もし、どちらかが居られなかったとしたら今の明徳はなかったですろう。今日は、そんな野中先生のお話をさせて頂きたいがです。


あれは高校二年の三学期の終わりの事やったです。明徳には朝礼の他に、夕礼という夜の集まりが毎日あります。夕礼の終了後にそれぞれの寮に帰って自習時間がはじまるのですが、その日、僕は部屋に帰らず野中義一先生を訪ねました。夕礼の時間が長引いたものですから夜も随分と遅かったというのに先生は外の仕事から帰られたばかりと言うご様子でした。当時、自分は何が出来るのか、何をして良いか分からず、校則違反ばかり起こしては謹慎を繰り返す退学寸前の問題児でした。このままではイカン!何とかしたくて先生に相談に行ったのです。


「先生、自分は弱い人間です、どうしたらエイでしょうか?」


「次の新学期からは心機一転したい」


何としても明徳を卒業したい一心でお話しさせてもらいました。中途半端で何をやってもダメな学生生活やったがですが、もし卒業まで出来ないとなると、それからの自分は本当に何をやっても出来ないような気がしちょったのです。


自分のような落ちこぼれは明徳倶楽部(勤労学習部)という土木作業専門に行う倶楽部に入れられちょりました。山を切り崩し、整地し、新しい道路や建物やグランドを造って、どんどん学校を拡張していた当時の明徳には、若い労働力はいくらあっても足りない位で、しなければならない仕事は、それこそいくらでもあったがです。


その明徳倶楽部の部長とも言えるのが野中義一先生でした。吉田幸雄校長先生と二人三脚でゼロから明徳を創り上げた野中先生。その超人的とも思える行動力と前向きなバイタリティには、心から尊敬して慕う生徒も多かったですが自分もそんな一人でした。野中先生は、その夜何も言わずに黙って自分の話を聞いてくれたのです。


明徳寮替え


春休みに入る時には新しい寮の部屋替えが発表されます。部屋を移り、休み期間中の倶楽部活動や帰省があり、そして新学期を迎えるのです。六年間、学期が変わるごとに繰り返されてきた部屋替えは、明徳の全校生徒が大移動する一大イベントであり、誰と同室になるのかワクワクする楽しい一日でもありました。けんど、この時の発表は特別やったがです。30数年経った今でも忘れる事ができません。


いつもの寮で名前を探しますが友人の名前はアチコチにあるものの、自分の名前だけが、いっこうに見つからないのです。おかしいにゃあ...そう言いながら、まさかと思い別の寮を見てみると、何とっ!別棟の寮に自分の名前があったのです。しかも、本当に驚いて放心状態になりました。


自分の名前の上には「寮長」と書かれちょったのです。


11寮々長


「りょ...寮長......」


ビックリして声も出なかったです。明徳の寮長を任される生徒と言うのは、それぞれの倶楽部で主将であるとか、品行方正で人望を集めている、誰もが認めるリーダーシップがあるなど、学校の中でもエリートのような特別な存在でした。それが、自分のように退学寸前、倶楽部活動も勉強も何をやってもダメな生徒が任命されるなど、普通なら考えられない事やったのです。寮長になったと話しても両親さえも笑って信じなかったような大抜擢!一階に36名、二階に36名の合計72名の寮生をまとめる、悪戦苦闘の高校三年の一学期が始まります。


明徳義塾卒業生スピーチ

明徳高校時代の竹虎四代目


早くも今週の日曜日の事になりましたぜよ。「一月いぬ、二月は逃げる、三月は去る」と言われますので、まっこと、あっと言う間に、その日はやってくるがですちや。一体、何の事かと言いますと、実は明徳義塾の卒業生スピーチをさせて頂く事になりましたぜよ。3月1日(日)の卒業式の舞台で、今までの明徳卒業生の中から選ばれた一人が、ハレの日を迎える後輩の卒業生に餞の言葉を贈るのです。


今年で16年目となると言う事で、過去15名の卒業生講演者の皆様を拝見すると、医師、大手企業社長、大学教授、日本航空CA、町会議員...会社員の方もおられますが、それぞれがその世界で輝きゆう方ばかり。明徳は北海道から沖縄、最近では海外からも生徒が集まってきますので、卒業生スピーカーの方々も全国から錚々たるメンバーが母校に帰って来て講演されちょります。名簿を片手につくづく場違いな感じを受けながら、こんな凄い方々の中で田舎の小さな竹屋の自分のような者がエイろうか?まっこと(本当に)少し気後れしてしまうがですぜよ。


とてもじゃないけんど34年前の自分やったらどうやろう。怖くて逃げ出しちょったろうか?諦めて断る理由、ダメな理由ばっかり考えよったろうか?


明徳校長夫人、上河さん、竹虎四代目


「スピーチは、来年の3月1日ですろう?」


ええっ!?まだ11月ですぞね...。


なんで、こんな早くから打ち合わせして準備が必要やろうか?不思議に思いよりましたけんど案の定やった。やっぱり、ただのスピーチとは違うがぜよ。卒業式という神聖な場で行う。


「明徳生に手渡す魂のバトン」


「最後の教育の日」


「1日だけの人間教育」


さすが明徳ぜよ、気合いの入りようが凄い!明徳は全寮制では無くなって自分の知っちゅう学校とは、ちっくと違うたと思いよりましたけんど、自分が間違えちょったちや、やっぱり明徳は明徳やった!明徳という学舎は、こうでないとイカンですろう!


「カチリッ」


スイッチが入る音がしましたぞね。静かにエンジンが掛かっちょります(笑)。昔のアルバムを引っ張りだして、スポーツもダメ、勉強は更にダメ、何をやっても中途半端で、何の取り柄も存在感もない、格好の良い事ばかり、楽な事ばかり追いかけよった、だらしない気弱な男子生徒の顔を見てみましたぜよ。


自分が何者なのか?


恥ずかしい事に今でも分かりませんけんど、学生の時には、全く分かっていなかった。そんな34年前の竹虎四代目へ話しをします。卒業式を迎えるのは制服を着て並ぶ生徒さんだけではないぜよ。この作務衣のおんちゃんも、もう一回だけ明徳卒業式ぜよ。


今年で121年目を迎える竹虎は、今日まで何とか伝統を守り続けられちょります。会社経営というような立派なものでは出来ていませんが、その根底にあるものは、実は全て明徳で教わったもの、「自分は明徳で作られちゅう」そんな風に最近よく思うがですぞね。だから、吉田幸雄校長先生から頂いたご恩を、たとえ、ほんの少しでも「恩送り」したいがです。明徳生活6年間の最後を締めくくる卒業生代表しての贈り物と言う事やったら、「魂のバトン」が渡せるかどうか分かりませんけんど、「ニコニコと、いそいそと喜び勇んで全力投球」。あの日の石コロだらけのグランドで習うた通り、竹のように真っ直ぐに、全身全霊をかけてやるだけながです。


中小機構ECフェス2015を終えて

ECフェス2015


こんなeコマースの催しは、あまり記憶がないがです。独立行政法人中小企業基盤整備機構さんが主催されたECフェス2015という、楽天市場さんはじめてとしてモールなどの開催するカンファレンス以外では、恐らくあのような規模の集まりは他にはないと思うがです。参加企業、団体リストを拝見しても錚々たる有名企業様が軒を連ねちょります。


ECフェス


虎ノ門ヒルズフォーラムという会場で開催された大イベントでしたが、東京のど真ん中で開催されるからですろうか?なんと参加者が1100名様も来られると聞いて、やはりネットへの関心の高さというか今からでも取り組みたいという、熱気で会場はムンムンとしちょりましたちや。まっこと、さすがは中小機構さんが開催されるだけの事はあるがです。


虎ノ門ヒルズの竹


この虎ノ門ヒルズフォーラムの入るビルには、普段は用がありませんので、まっこと初めてきましたけんど、迷うた、迷うた、歩き疲れてグッタリして辿りついたのですが、おっと!そこには美しい竹があるがぜよ~!ビルの吹き抜けには竹が植えられていて癒しの空間になっちょります。虎ノ門という地名からしても竹はバッチリ似合うちょります。なにせ昔から「竹」と「虎」は付きものなのです。襖絵や掛け軸に描かれる竹は、必ずと言うてエイくらい竹林にいますぞね。だから、虎ノ門に竹もバッチリなのです、本当に素晴らしいちや。これは、虎竹の里から出て来た自分にとっても和みましたぞね。場所は分からんし、人は多いしで困っていたところに、この竹達のお陰で生き返った気分にしてもらいましたぜよ!


中小機構ECフェスパネラー


さて、そこで自分はパネラーとして登壇させていただきましたけんど、中小機構の販売開拓支援アドバイザーとしても活躍される、サイバー大学教授であられる森戸裕一さんに、モデレーターを務めていただきました。


中小機構ECフェスパネラー竹虎四代目


そして、エソラワークス代表の白石哲一さん、油忠第25代目の高橋正典さんらと一緒に席に着かせていただきました。実はご両人とも前に同じ雑誌に掲載いただいた事などもあり、前からお会いさせていただきたい方々だったので、本当に今回は良い機会となったと思います。この三人でネットショップ店長座談会としてお話させてもろうたがです。


虎ノ門ヒルズフォーラム竹虎四代目


しかし、何ですにゃあ。「中小ネットショップが勝ち抜くためのヒントがここに!」と言う、凄い学びがありそうなテーマではありますけんど、実は自分はこういう形のパネルディスカッションが大の苦手ながぜよ。どう苦手かと言うと、話しを振られても頭が悪いものですきに、すぐにその質問などに対して良いお返事ができていないのです。


いえいえ、もちろん、ある程度の打ち合わせはしちょります。けんど、話しの内容によっては思わぬ方向に行くこともありますろう。ただ、今回に関しましては、さすがに一流の方がモデレーターです。森戸さんの手綱さばきは素晴らしかったです。こんなに短時間に色々なポイントを絞った話しができるのは、そうそう有る事ではないがです。


虎ノ門ヒルズフォーラム竹虎四代目


しかし、自分がパネルディスカッションをあまり好きでない理由が実はもうひとつあって、それは、だいたいの方が座ったままお話をされよります。ところが自分は、話しだしたら立ち上がるクセがあって、本当の事を話ししようと思えば思うほど、そこに座ってなどおれないのです。密かに、こんな東京のど真ん中やし、虎ノ門ヒルズやし、さすがに今日は立ち上がる事もないだろう、自分で自分の事をそう思ってはいたのです。


虎ノ門ヒルズフォーラム竹虎四代目


ところが...。途中までは座ってはいましたものの、やはり、お話を始めるとダメでした。人が多い、少ないのではないがです。せっかく、お越しの皆様に対しても、自分対しても、その事に対して本気でお話する事しか出来ません。田舎の小さな竹屋ですので皆様の参考になったり、学びになったりなど、恐れ多い事なのでそんな事は考えちゅうワケではありません。ただ、ただ、このような場所でお話させて頂けるのやったら、自分の120%を出して、ぶつけるほか、やり方を知らないのです。


竹虎四代目ECフェス2015


気がつけば、結局いつもの通りやったぜよ。立ち上がり、前に出ていってました。もしかしたら、こうなる事を知っていたのでしょうか?さすが中小機構さんですちや。席順も一番立ち上がって歩きやすい中央の端っこでした。


中小機構ECフェス竹虎四代目


登壇中は、そこまで考える余裕もなかったのですが、そうなりますと、やっぱり、まとめ役の森戸さんの事が気にかかりますぞね。一人熱くなって立ち上がり前にでて喋るようなパネラーがいると、少なくともやりやすくはないのではないかと思うがです。けんど、この写真を見て安心しましたちや。顔に笑みを浮かべて頂いちょります。まっこと、このお顔を拝見して、どれだけ安堵したか...!


自分はコンサルタントや先生ではなく竹屋です。地方の竹屋がインターネットを使う事によって地域資源にも気づくし、自分達の価値にも目覚めてこうしてやりよります。そんな自分達と同じ地方からの情報発信を求めている方は多いですろう。今回は東京のど真ん中の開催ですので首都圏の方ばかりかと思うたら、意外とお声をかけてくれる経営者の方は東北やったり九州やったり、遠くから皆様わざわざ来られちょったのです。


そんな皆様からメールやフェィスブックなどで後からご連絡をいくつかいただきました。たとえ一人でもエイと思うちゅうがです。あの時の自分の熱が誰かに伝播したら、それでエイ、まっことインターネットの活用しか自分達にはないがです。


中小機構ECフェス2015江島民子先生


この日は、2001年に初めてお会いさせて頂いてから、何かとご縁のある株式会社グリーゼの江島民子先生と久しぶりにお会いさせて頂き、ご講演も聴く事ができて新たな気づきをいただきましたし、高校や大学の同窓生、e商人の塾生まで、まっこと色々な人とご一緒できて楽しい一日を過ごさせてもろうたがです。



心落ち着く竹の設え

竹柾割り


そのホテルのロビーに入っていくと美しい竹の設えに気付きますぞね。竹を縦に柾割りして、いつもの見慣れた竹とは違う竹の身部分の色合いや不規則に並ぶ竹節の面白さをデザインにしちゅうがです。そうそう、柾割りと言うても本当に割るとこんなに綺麗にできませんので、丁寧に竹を縦方向に切っていき、このような形にしちょります。


これを竹と気づかない人は、あまりいないと思いますが、もし、仮に竹と知らなくとも何となく心地のよい雰囲気であるとか、ゆったりとした和んだ空気感は感じていただけるのではないですろうか?まあ、自分などからしたらエアコンの年中効くロビー内で竹がどの程度ゆがみが出るとか、傷むのかとか、他の事が気になってチェックインで書き間違えたりもしたのですが...(笑)。


黒竹


コレと言って違うところの無いような家並みが続く道沿いに、黒竹という細い竹を並べた垣根が作られちょります。先ほどのホテルのロビーと同じく馴染みの竹林を思い出させるようで、ホッと安堵するような落ち着いた気持ちにさせてくれるがです。


「馴染みの竹林」と言いましたけんど、現代人に決して竹林は馴染みではないようです。もちろん大都会の真ん中に生活される方でも植栽に竹は多くなりましたし、近くの山々に沢山の竹林がある事はご存知ではあろうかと思います。けんど、遠くから眺める事はあっても竹林に入った事がないという方は意外に多いようですので、むしろ遠い存在となっているのかも知れませんぞね。


けんど、それなのに竹の造形をご覧になられた時、あるいは、先ほどのホテルさんなどは気づかないような細やかな所にも色々と竹をあしらい、お客様をもてなす心を感じましたが、もし竹と分からず、気づかずにいる方がおられたとしても、視覚から入る竹の優しさは必ず日本人の方には伝わると思うちょります。それだけ竹と日本人の付き合いは長く深いのです。いつも身近にあって、寄り添うてきたのが竹やと思うちょります。「竹冠」の付く漢字を数えてみたら119もありました。この多さは、その証のひとつですろう。そして、竹と知らずとも何とも言いようのない気持ち良さを感じるのも、その証のひとつだと思うのです。


竹の髪飾り

竹バレッタ


「よく、あのモノのなかった時代に...」


これは、今の自分達が昔の職人さんが作られたモノを見て、つい言うてしまう言葉です。


城の好きな自分は、時間があれば城郭巡りをしよりますが、特に目を奪われ、注目しているのが石垣ながです。あれだけの巨大な石を寸分違わず切り、合わせ、ビックリするような高さの石垣を築いちゅうがです。穴太衆と呼ばれる石垣職人が、それぞれ日本各地の城で腕をふるい、何百年間も変わる事なく、そこにある存在感。おそるべき技術やと思うがです。


けんど、これは石垣職人さんのお話だけではありませんぞね。もっと小さな工芸品でも昔の日本の職人さんは凄かったなあ。そして、特に古い竹細工などには素晴らしい作品があるにゃあ。よくそんな風に思う事があるがです。今のように便利な素材がなく、代替え品も無かった時代。無かったからこそ、竹に求められた機能性、装飾性、他に選択肢がないからこそ、竹に真っ直ぐに、竹をどこまでも極めたような細工が生み出されたと思うがです。


おそらく、これは竹の世界だけではなく、日本の手工芸全体に言える事なのかも知れませんが、こんな小さな手の平にのるような竹髪飾りひとつからも、そんな時代の香りが漂うてきますぞね。竹の髪飾りが生み出されたのは、もう50年以上も前の事、しなやかで、丈夫、細く、しなやかな竹ヒゴになる竹が、スーパースターのような存在でもあったのかも知れんです。


竹アクセサリー


職人さんの工房で、少し違ったものが作りたくなって、手の空いた時に作って見たという竹アクセサリーを拝見しました。さすがに熟練の職人さんだけあって、専門に作る事もないのに素晴らしい出来映えやったがです。


竹の髪留め


けんど、昔の手仕事と今の手仕事の一番の大きな相違点は数量。昔は同じものを朝から晩まで製造するだけの市場がありましたので、職人さんの技は黙っちょっても上がっていき、作られる数量も増えていったのです。手の若い職人さんも数をこなしていく内に上達し、更に新しい商品や、難易度の高い竹が編みだされる、そんな理想的なスパイラルが出来上がっちょたのですろう。価値観の多様化や、モノのあふれる今の時代に、昔と同じような技の深みを求める事はできなくなっちょります。けんど諦めるのではなく新しい竹の道はきっとある。職人の手は一朝一夕にできるものではありませんが、これからの時代の竹がある事は、固く信じちゅうがぜよ。


変身!竹六ツ目巾着籠

六ツ目籠


虎竹六ツ目かごは、最初のスタートは蓋の付いている事からも弁当箱として作る事にしたがです。編み目の大きさから通気性はバツグンやし、、手頃なサイズ感も良く、お陰様でなかなかの人気の弁当箱となり、当社々員でも愛用している者がいるほどながです。編み目としてはオーソドックスで昔からある定番と言うてもエイ籠です。もっと何か使うていただけるアイデアはないかと、ご家庭用の小物入れ、化粧品入れ、お菓子入れ、茶道具入れ、竹炭入れ、調味料入れ、裁縫道具入れ、救急道具入れなど、いろいろご提案を考えて籠の使い方をウェブページでもご紹介しちょります。


六ツ目巾着かご


今回はさらに用途を広げて外に持ち出せるように、ちりめんの生地をつけて巾着袋として作り直してみましたぜよ。白竹の色合いと細い竹ヒゴのラインが黒い生地に映えて、思うた以上に綺麗な出来映えではないろうか?


今からでしたら夏の浴衣に合わせて使うて頂けるかと思いますが、こうして、いつもせっかく国内の竹、国産にこだわり、昔ながらの日本の職人技で作らせてもらっていても、その価値を若い皆様を始めとして沢山の方に伝えることが難しいと考えちょります。これは地方から竹の情報発信を心がける自分達竹虎が、もっと頑張って取り組むべき最優先の課題とも言えるかも知れませんちや。


タイガー・タケトラ2015

タイガー・タケトラ2015


虎竹の伐採は先月末日までで終了しちょります。まだまだ山出しの作業としては続いていきますので、シーズンが終わってしまったワケではないがですが、山出しの終わった竹林では元の静けさを取り戻しつつあるがです。


さて、そんな中、あの奇声が帰ってきました。


「アチョオオオオオーーーーーーーーーーー!」


やっちょります!!!黄色い虎ックスーツに、虎ックシューズに身を固め、ブルース・リーのつもりやったですが、サモ・ハン・キンポーのようなカツラをかぶってしまった男、タイガー・タケトラ、まっこと謎の男ぜよ。


山での伐採作業の間は長い竹が伐り倒されたり枝打ちがあったり、なかなか自由に竹林を使う事はできません。細い山道も、虎竹搬出用の機械が通る道幅しかないので、トレーニングと称しても、いつでも登り下りする事はできませんでした。山の職人さんのいなくなった竹林は彼の独壇場!


虎竹ヌンチャク


ややっ!?


愛用のヌンチャクも、さすがです日本唯一特産の虎竹製ぜよ。おそらく、虎竹を武器にするのは彼だけ。しかも竹節を揃えちゅう、強度を考えてですろうか?こんな贅沢な使い方は虎竹の里以外では不可能なり。


「なぜ、虎ックスーツなのですか?」そんな事を聞いてみた事があるがです。そしたら、


「そりゃあ、おまん。決まっちゅうやいか。虎は黄色と黒。」


との事。最近では、竹林見学の方もボツボツ来られよりますけんど、道端に黄色い虎ックスーツが見えたら要注意ぞね。虎竹ヌンチャク片手にタイガー・タケトラが飛び出してくるかも知れんがです。



ECフェス2015

竹虎四代目


虎ノ門ヒルズには行った事もないけんど六本木ヒルズと親戚かにゃあ?本日は、中小企業基盤整備機構さん主催でECフェス2015という凄い催しが、虎ノ門ヒルズフォーラムにて開催されるがですぞね。何と申し込みが1100名様を越えて増え続けゆうと聞きますので、こりゃあ、どんな事になっちゅうろうか?まっこと、会場が満員電車のようになっちょって人に酔いそうやちや。


そんな会場で自分のような田舎の小さな竹屋が何かお役に立てるような事がお話しできますろうか?自分は、まるで岩崎弥太郎のようなポーズで写っちょりますが、見ての通りの山に囲まれて、目の前には土佐湾の広がる、たったの1.5キロほどしかない狭い間口の小さな谷間で、皆さんから見たら、本当にささやかな商売をさせてもらいゆうだけですきに。


ただ、ここの虎竹が日本唯一という事と、創業して121年の歴史がある日本の老舗という事以外は、何ちゃあ自慢する事も無い、頭の悪い(顔はエイけんど)何も持たない自分達ぞね。けんど、ここから眼下に見えゆう浜辺がありますろう?ここは大阪天王寺で創業した初代宇三郎が日本でもここにしか成育しないという、かつて江戸時代には土佐藩山内家に年貢として献上されていた、虎模様のでる不思議な竹を求めて小舟にのって辿りついた浜辺ながです。


ここの浜辺に下りてみるがぜよ。


ザッザッ...ザッザッ......


もう、ちっくと歩いてみろうかにゃあ。


ザッザッ...ザッザッ......


宇三郎が船で着いたのは、きっとこの辺り。曾じいさんが初めて見た虎竹の古里焼坂の山を望むぞね。自分にめがけて山からの、竹からの風が吹きおろしてくる。


どうぜよ?熱いかえ?燃えてきたかえ?


こみあげてくるマグマみたいなモンは広い砂浜の周りにも誰もおらん。ワシ一人だけやきに堪えんでもエイがぜよ。


これが自分のインターネットの話しぞね。SEOは何の略か知っちょりますか?自分は知らんかったきに今調べたけんど、SEO(Search Engine Optimization)ですと。土佐弁しか知らない田舎者ですきに英語などは分からんけんど、GoogleでもYahoo!でも検索エンジンと言うモノは、一番の人を一番にするのが目的ですろう?検索エンジンの使命は、正にそこにあるがですきに。そしたら、自分のような地方からの情報発信する者のやり方は、おのずと決まってくるがぜよ。


美味しい「豚まん」が食べたい

蒸篭


大阪では肉饅の事を「豚まん」と言うがです。竹虎は自分の父親が小学校の頃まで大阪は天王寺に工場があり、虎竹の里から虎竹を運んできては加工していた歴史があります。太平洋戦争の空襲で焼け野原になり、疎開していた虎竹の里に工場を作ったのは戦後の事ぜよ。祖父も祖母も生粋の大阪人であり、亡くなるまで大阪弁しか聞いた事がなかったにゃあ。


なので祖母からは当然「豚まん」と教えられちょりましたので、地元の友人たちに肉まんを豚まんと呼んで、こじゃんと笑われた事を今でも覚えちゅうがです。それからずっと、肉まんとばっかり呼びよりましたが、先日の寒い夜、祖母を懐かしく思い出して「豚まん」を買おうっと...独り言を言うて、スーパーの冷凍コーナーで地元メーカーさんのものを買うたのです。


蒸篭


電子レンジでチンは手軽でエイですにゃあ。けんど、本当に美味しく、冬の味わいを楽しむ時には何と言うたち蒸篭で蒸すのが一番ながですぞね。お湯は専用鍋がなくても中華鍋でも十分なのです。湿気をふくませた蒸篭を置いてお湯が沸くまでの時間も嬉しいもの。蓋を開けた時のフワリと立ちのぼる湯気と香り、豚まんのアツアツのほっぺを指で恐る恐るさわると、ふわふわの、たまらんような弾力。とにかく、湯気は人の心を安らかにする効果がありますろうか?ホッとしてきて、豚まんの味を何倍にもする気がするがです。豚まんだけではないがぞね。餡まん、そして高知特産の四方竹の入った中華まんと次々と、思わず食してしまうがですぞね。


「竹虎」という名の織物

織物竹虎


凄い発表があるがぜよ!それがコレ、何と「竹虎」という名前の織物ぞね!竹屋ですきに日本唯一の虎竹で色々と創ることはあっても、まさか「竹虎」と言う名前の織物ができるとは夢にも思わんかったです。これを編んで頂いたのは福岡県にある宮田織物さん。社長の吉開さんは昔から自分達のような地方からの情報発信を志す者の目標であり、憧れでもあったがぞね。どんな製品を作られゆうかと言うたら、分かりやすいのが、ちゃんちゃんこながです。自分などは冬の寒い時期には、ちゃんちゃんこは手放せないアイテムで、


「受験勉強=ちゃんちゃんこ」


こんなイメージを持たれちゅう方も多いのではないかと思います。そんな、ちゃんちゃんこ、いわゆる半纏(はんてん)を創り続けてきた大正二年創業の老舗であり、近年では久留米絣の味わいを持つオリジナル布地での製品化を進められゆう素晴らしい会社様ながです。


宮田織物さん


会社には数回お邪魔させていただいて色々と拝見させてもろうちゅうのですが、とにかく、自分達では分からないくらいの種類の布地を編まれよります。自分など知らないものですから、生地の柄というのは何となくプリントか何かかと思いよりました。ところが、ここ宮田織物さんでは、それぞれの柄を編むとの事、ええっ!?それは大変な事ではないろうか?素人ながらに思いよりましたが、難しいパターンでは手仕事の職人技がやはり活かされちょって、こじゃんと感動したりもするがです。


そんな中、日本唯一の虎竹の模様を生地にできないか?宮田織物さんの熱い職人気質の血を感じて、どうせやるなら、時間はかかるけんどやってみろうと思いよりましたら、「どうぜよっ!」と言わんばかりに、いやいや福岡ですきに「どうばい!」ですか...。どこか外国のセレブな国みたいですが、届いたのがこの生地。


すごい......!!!竹虎の虎模様が表現されちゅうではないですか!?そんなに沢山使うわけでもないのに、こうやって手間暇かける姿勢に圧倒されたがぞね。


スクーグスシュルコゴーデン


さて、ここは冬のソナタで使われたロケ地ではないぞね。(そんな事思う人おらんか、高知では今再放送)先日から、何度も言うて飽きた方もおられるかも知れませんが、田舎者が遠くへ行ったものやき話したくてしょうがないがぜよ。


そうです、先々週になりますが、ストックホルム国際見本市に出展させてもろうちょった時の写真です。本当に南国土佐とは全く違う気候で雪に囲まれていましたが、実は、一度たりとも寒いと思うた事がなかったがぜよ。寒がりの自分には本当に意外な事でした。けんど、何を隠そう寒さを感じなかったのは、この宮田織物さんで別誂えしてもらった長半纏という、綿入りのロングコートのようなものを着て行ったからながです。作務衣の上から羽織ると、日本の職人さんが手作りした綿の温もりが、極寒のスカンジナビア半島の風を寄せ付けんかったがぜよ。さてさて、竹虎という名の織物が、これから一体どんな形になっていくのか?それは、これからのお楽しみという事ながぞね。


竹細工の細かい縁部分

当て縁


竹細工とは字で書くとおり竹を細く、細かくして作り出す技ぞね。日本全国どこにでも見られる、あの一本の硬い竹が籠や笊になっちゅうのを見られる場合には、初めての方やったら、だいたいがその緻密な編み目をご覧になられる事が多いようですぞね。美しい編み目は、竹細工ならではの模様が浮かびあがり、まさに籠の見せ所のひとつでもあり、実際に使われる場合にも使い心地や耐久性を大きく左右する大事な部分でもあるがです。


ところが今回クローズアップさせて頂いちゅうのは、その編み込みの縁の部分ですぞね。竹を縦方向に適当な幅に粗割した後、更に細く割って行くのですが、竹表皮を薄く剥いでいても竹節の部分は少し盛り上がり、斜めになったラインのように残っちょります。これは丸い籠のカーブに沿わせてあるので自然と内径と外径の違いから、このように竹節模様が少しずつズレてくるがです。


竹を扱う者でしたら当然の事のように思いますけんど、これと同じように竹を柾割りして作られる玉袖垣などの大きな造形の場合には竹表皮をそのまま活かしちょりますので、竹節がハッキリ見られるという違いはあるものの、細かい割りや、節で表現される柔らかいライン、あるいは、真っ直ぐに使う部分での竹節をあえてズラす事による、ジグザグ模様などに驚かれる事があるので、このような縁のあしらいについては見ているようで、気づかれていない場合もあるかも知れないと思いゆうがですぞね。


深竹ざる


縁巻きを留めちゅう素材についても、籐やったりカズラやったりと、それぞれの職人さんや用途により違いがあるがです。もちろん自然素材の竹にあわせて使いますので、同じように山に育つ素材が昔から利用されてきちょります。籐は熱帯地域で自生するもので日本にその素材はなく、ラタン家具などが東南アジアに沢山見られるように、国産の素材ではないものの強靱な繊維を持ち使いやすい事から、一番使われる事が多い縁巻き素材のひとつです。


けんど、そんな強い素材だとしても、やはり外で働く竹籠でしたら長い使用の間には、だんだんと弱くなって繊維が弾かれるように切れる事もあります。そこで農家さんや田舎で実際に生活道具として使われる籠ほど、錆にも強いステレンスなどのご要望が高い事があるのです。以前、そんなに細くない針金を使った平ざるがありました。農家さんで干し大根などに、いっつも使われよりましたが、いちいち仕舞う事もないので雨ざらしです。ステンレスではなかったようで、真っ赤になった針金は切れてしまって使えなくなっちょります。


けんど、竹編みは、すっかり枯れたような色合いですが、触ってみると弾力もあり、まだまだ使うてくれと言いゆうよう。まっこと、竹の強さと言うか、たくましさと言うか、見栄えばっかりの竹もエイですけんど、長い本気の付き合きで分かる竹。竹のこんな所も好きながですちや。


湯けむり、真竹も上機嫌

湯抜き釜


山の頂上の方は雪が積もって真っ白くなるような寒い日やったがです。曲がりくねった道の両側の木々は鬱蒼と生い茂っていて、日中というのにライトを点灯したくなるような箇所があるのです。開かれたカーブに差し掛かったところに小さな看板を見つけましたぞね。


「こんな所に竹屋さん...?」


九州でも大分県は良質の竹の多いところとして知られちょりますが、こんな山の中に竹屋さんとは一体何を製造されゆうがやろうか?


真竹


ちょうど一人の職人さんが真竹の油抜き加工をされゆう所でした。竹の油抜きには方法が二種類あって、虎竹のようにガスバーナーの火で抜く方法と、今回の竹屋さんのようにお湯を使ってする方法があるがぜよ。


湯抜きの道具


改めて湯抜きの釜を拝見させていただくと、ずっと向こうまで続いた長い構造という事が、一目でお分かりいただけるかと思うがです。こんな道具が立てかけられちょりますちや。竹虎では使っていなかったですがお湯をかき混ぜるのに使うようです。それぞれの工場に独自の道具があって面白いがです。


湯抜き釜


長い竹をそのまま切断することなく、お湯に入れられるようにとの工夫で長い長い釜です。竹虎でも湯抜きの際には竹の端材を燃やして使っていましたが、こちらでも同じように竹を燃料とされちょります。これだけ大きな釜だとお湯が温まるのに時間がかかりますので、朝4時、5時という時間から火入れせねばならず、なかなか大変でもあった湯抜きの朝を思い出すがですぞね。


真竹油抜き


湯抜き釜から竹を揚げる際には、ウエスで竹表皮を拭き上げながらの作業になります。お湯で温まって、ほんわかと湯気を立てながら上がってきたら、今度は一本、一本まるで人の垢すりのように綺麗に磨かれていく、こりゃあ、まっこと上機嫌のはずですろう。竹はこうやって時間と手間をかけて白竹になっていくがです。


南蛮菓「ざびえる」

南蛮菓「ざびえる」


これは何のお菓子か分かりますろうか?これだけで名前が当てられる方は、テレビチャンピオンの地方銘菓選手権で優勝できますぞね(笑)。


実はこのお菓子こそ今日の件名にも書いちょりますが、ざびえる本舗さんの南蛮菓「ざびえる」ながです。さて、どうして竹虎四代目の30年ブログにこのようなお菓子が登場?かと言いますと、実はこの「ざびえる」を自分は小さい頃には地元のお菓子とばかり思っていたのです。虎竹の里は田舎ですので和菓子屋さんもありませんが、隣町には美味しい和菓子屋さんがあって、家族がたまにケーキや饅頭を買うてきよりました。そこで勝手に、そのお店かどこかのお菓子とばっかり思いよったのです。


つまり、それくらい身近に、いつも食卓やリビングのテーブル、冬はコタツの上などに置かれてちょったお菓子という事なのです。ところが!?そしたら一体どこのお菓子かと言うと、ざびえる本舗さんは大分市のメーカーさんながぞね。


南蛮菓「ざびえる」


自分が小さい頃より九州に竹を運んだり、九州から来たりという、産地間の往来が多かったという一つの証かと思うがです。高知の西の端の宿毛港から出て佐伯港に着くのがお決まりやったがです。そんな中、詳しくは分かりませんけんど、当時は今のように、お土産のお菓子の種類もなかったがですろう。いやいや、もしかしたら自分がこのお菓子が大好物で、妹に言わせると、


「いつも独り占めして私が気づいたら空箱ばっかりやった」


そうなので、あえて、ざびえるをお土産にしていたのかも知れんにゃあ。いずれによ、まったく同じ理由で「大阪名物粟おこし」も、当時、山岸家にはいつも置かれちょりました。関西方面には週に何度もトラックが出るほどやったそうですので、お得意様はじめお客様が来社される事も多かったようですし、元々、竹虎は大阪に本社があり祖父母は大阪出身です。なので親族が来る事も多かったようですちや。けんど、そんな関係で自分は本気で「ざびえる」と「粟おこし」は、近所のお店にも普通にあるお菓子と思って育ったのでした。友人の家に遊びに行くような年齢になって、どこの家にも二つのお菓子が置かれちょりませんので、あれ?ウチの家は、ちっくと珍しいがかも知れんにゃあ...。そんな事を呑気に思う子供時代やったがぞね。


雪の国、竹虎四代目見参!

竹虎四代目


竹虎四代目見参ぜよ!寒いので作務衣に綿入りの長半纏を羽織り、祖父の愛用しよったマフラーを坊主頭に巻いちょりますぜよ。どうも見慣れない夜空に、美しい街並、真っ白い絨毯のような雪道が続くのを見たら、どうにも止まらんがぞね。


ストックホルムの子供達


けんど、この格好ですきに、道を行く子供達が口々に言います。


「ニンジャ、ニンジャ...」


んっ?ニンジャとは忍者の事?まっこと、アメリカでは「スシ屋」やったけんど、ここでは、忍者。思いのほか海外では忍者は有名な存在のようですちや。


煤竹携帯箸


ややっ!?


けんど、もしかしてストックホルムの子供達。あなどれんかも知れんちや。上着の下に隠し持っちょった煤竹マイ箸をお見通しやったがやうろか!?


煤竹箸居合い


煤竹のサヤに煤竹の箸、刀と同じようにツバも付いた渡辺竹清先生作の逸品ちや。ツバは格好だけではないですぞね。そのまま箸置きに早変わりするというスグレモノですきに。これを腰に差しちゅうのを見られたら、まっこと、ニンジャと言われても仕方ないがぜよ。



ティーちゃんと虎竹マタタビボール

笠原進司(Shinji Kasahara)さん


昨年の秋に18年ぶりにニューヨークに行く機会があったがです。前に行った時には、たまたま現地で活躍されよりました、アメリカ人のバンブークラフトの作家の方がおられて、空港からの送迎も、ご自宅での宿泊も引き受けていただきましたので、何とか一人で行く事ができたのです。


今回も一人旅やったがですけんど、何というても虎竹のスツールやバック、名刺入れなど、日本唯一の虎竹製品をニューヨークのお店で展示頂いておりました。特にその中でも、虎竹バックは、その名もニューヨーカーと言うのです。名前の由来ともなった街に展示されるのやったら、その勇姿をどうしても見たいと思って、居ても立ってもいられず、英語など全く話せないし、正直行き方すらもおぼつかないのですが、何とかなるやろうと、思い切って行く事にしたがぜよ。


笠原進司(Shinji Kasahara)さんとは、そんな旅先で偶然お会いさせて頂いたがです。展示させて頂いているショップで、ちょっとしたイベントがありましたが、そこに友人に誘われて、ご来場されていたのです。


自分は本当に田舎者で竹の事しか分かりません。そもそもパソコンやインターネットを使うのは竹の為であって、ネットサーフィン言うがですか?パソコンで何かを見て回るなど、ほとんどしないのです。ウェブサイトで閲覧するのは唯一、虎斑竹専門店 竹虎だけ(笑)。テレビもNHKの大河ドラマくらいしか観ないですきに、猫好きな方の間ではカリスマ的な超人気をほこると言うだけでなく、テレビや雑誌などでも広く取り上げられて、こじゃんとご高名やと言う笠原さんの事も、まっこと失礼ながら存知上げていなかったがです。


ホテルに帰って「しゃべるねこ」と検索してみたら、何と!笠原さんのブログやユーチューブなど情報発信がズラリとあって、いつくか拝見して、なるほど、これは凄いと感心したがぞね。ニューヨークで生活されながら医学博士でありダンサーでもあられる、ちっくとユニークな経歴をお持ちですが「しんコロ」さんという名前で、「しゃべるねこ しおちゃんと僕。」という本も書かれちょります。本当に愛猫への思いがあふれちょって、見る方も何か優しい気持ちになるがですろう。


さて、そんな笠原さんから突然フェイスブックに、たまるか嬉しいお知らせが届きましたぜよ!何と何と、事もあろうか、お届けしちょりました虎竹マタタビボールで遊ぶ猫ちゃんの様子を動画配信してくれちゅうではないですかっ!?こりゃあ、こじゃんと(とても)感激しましたぞね!マタタビも虎竹も里山の自然素材。そして、それを使うた職人の手仕事の品。昔からずっとある日本のものが太平洋を渡っていく...。けんど、アメリカの大都会の猫ちゃんにお気に召していただけるろうか?そんな小さな不安は動画を見て吹き飛びましたぜよ。ティーちゃんが喜んで遊ぶ姿が嬉しゅうて、何度も何度も繰り返し動画を見させてもろうたがです。



言葉はいらない盛り籠

古い盛り籠


一体何十年前のものか分かりません。ひとつの盛り籠を見せて頂いたのです。


持った瞬間でした...。


指先に伝わる竹の感触、もう言葉はいらない感じです。


普通のどこにでもあるような盛り籠です。今でも似たような籠は製造され、竹虎でも販売している盛り籠。けんど、残念ながら今の技では到底及ばない風格。ちょうど今の時期ならミカン籠として、昔は一家に一つはコタツの上などに置かれちょった竹かごです。時代の流れと共に需要も生産も減って、今では職人さんも少なくなった竹細工ですが、多い時には一つの工房に何十人という内職さんが関わり分業化され、流れ作業でドンドンと大量生産されていた製品の一つぞね。


この盛り籠、持っただけで分かる質感、ヒゴの厚み、編み込みの確かさ、堅牢性、そして竹表皮を薄く剥いだ磨き加工特有の竹肌の美しさ!まっこと、話すことは何ちゃあないがです。これが沢山の職人さんが役割分担しながら作られていたとは、今の時代では少し信じられない気もしますが、このような盛り籠を一日に職人さんたった2人で、何と数百という単位で編み上げていたと聞きます。竹ヒゴ取りはじめ、あらかたの編み込みなどは専門の方にまかせて、最後の大事な仕上げだけを次々とこなしている、一心不乱に竹と向き合う職人さんの姿が浮かびますぞね。


日本のモノ作りには、かつて活気がありました。より良いものを、より早く、一つでも多くという職人魂が、竹製品に命を吹き込みよった時代だと思うがです。古老の職人さんが誰も口にする、一番大切にされたスピード。この時間との戦いこそが籠の無駄を削ぎ、磨き上げ、惚れ惚れとして見飽きない機能美を今に伝えてくれちょります。


孟宗竹の理由

孟宗竹


竹は長い日本歴史の中で生活、文化に深く根ざし、昔から身近に感じてきた存在であると思います。今でも田舎の古い民家の周りを竹林が囲っていたり、すぐ近くの里山に竹林が広がっていたりしますが、その多くは日本最大級の孟宗竹である事が多いのです。日本在来種でない竹ではありますが、その長さ、太さから重宝されて各地に広がり、美味しく大きな筍が採れる事などから、今では北限の東北より南の地域では見かけない事がないほど、どこにでも見られる日本を代表する竹のひとつとなっちょります。


ストックホルム国際見本市


ストックホルム国際見本市に出展していた竹家具は、この孟宗竹の太さと丈夫さを活かした作品でした。近くにあって、ずっと竹と共に暮らしてきた自分達が、まだまだ気づいていない竹の魅力を存分に表現されちゅうのは、竹をまったく新しい未知の素材として、新鮮な目で見られるステファンさんならではですろう。ところが、この孟宗竹こそ今の日本で活躍の場がなく、いわゆる放置竹林などと、あまり喜ばしくない名前で呼ばれ、ひどい場合ですと他の竹林や畑などを浸食する「悪者」のように見られることすらあるがです。


竹をそのまま造形に使う場合には晒した白竹であったり、自然な竹の雰囲気を感じてもらいたい場合にも、青竹に手を入れて更に美しい青く加工するような、竹素材にそのものにこだわりを持った製品作りをするかと思いますが、今回はまったく竹素材そのものには重きをおいちょりませんでした。


それは、どこにでもある孟宗竹をそのまま使う事によって、せっかく山々に沢山ありながら各地で使われずにいる竹が、実はそのままでも竹の美しさを持ち、自分達が忘れていたり、気づかずにいる孟宗竹との新しい関係が、もしかしたら生まれる事に繋がるのではという思いがあったがです。そして竹は、そのままで竹として素晴らしいものであり、それがステファンさんと言うデザイナーの手をお借りすると、一体どれくらい人に伝わるものなのか?どんな世界が広がるのか?自分が見てみたいと思いよったのです。


竹ポスター


長いと思いよった国際見本市の日程も、アッと言う間に過ぎてしまい、まっこと(本当に)慌ただしくストックホルムを後にして、飛行機を乗り継いで帰ってきましたけんど、空港にあった一枚の竹をモチーフにしたポスターに目が止まりましたぞね。海外の方が持つ日本のイメージや、美しさの象徴として、このポスターのように竹は度々登場しちょって、日本の竹を認めていただき、憧れのような気持ちを抱いて頂いているようにも思います。


今回の竹家具動画も既に6万回もの再生回数を数えちょりますぜよ。海外の方の竹への関心の高さは会場にいて肌で感じましたけんど、こうやって増えていく実際の数字は、それぞれお一人、お一人の人数の事ですので、改めて勇気づけられる思いながぞね。


佐藤竹邑斎さんと竹家具

竹虎四代目


佐藤竹邑斎(ちくゆうさい)さんと言う方がおられました。本名は佐藤智世太、大分県生まれ高級花籠の名人としてご高名だった方です。東京や京都でも籠の染色などを学び皇室にまで作品を献上されたり、大正15年(1926年)のフィアデルフィア万国博覧会では、金賞受賞されるなど竹工芸界に多大な功績を残された方なのです。


紋付き袴姿で写真に写った佐藤さんは一体どのような方だったのか。目の前にある作品から、その人となりを探すしかありませんが、残された緻密で精巧な編み目の花籠からは、竹に命を燃やした生き様が垣間見れる気がします。そんな佐藤竹邑斎さんの作品に触れて感動し、そのまま竹の世界に飛び込んだのが生野祥雲斎さん。後に竹工芸では初めての人間国宝となる竹芸家ながです。


生野祥雲斎さんが1967年に重要無形文化財保持者に認定された時には、さらに全国各地の竹の仕事に従事する名も無き多くの人達に希望と勇気を与えたと言われますが、その始まりが、この佐藤竹邑斎さんである事を思えば、28歳という若さで亡くなった、この大作家の作品が、全く違った輝きを持って見えてくる気がしますぜよ。


竹の節


これは、長い長い竹の歴史のほんの一片、けんど竹で言えば節にあたるような所ですろうか。竹と日本人とは数千年の歴史があり深い関わりが続いています。生活道具としての竹細工から竹工芸へ、そして美術工芸へ。更に今度は又まったく新しい活用方法の模索が続けれちょります。竹の世界が、そうして今までも変わり続けてきたように、これからも、もっともっと広く大きく竹は変わり続けていきますろう。


先日よりストックホルムで開催されています国際家具見本市でのステファン・ディーツ(Stefan Diez)さんがデザインされた竹家具は、今まであまり取り組まれていなかった竹の素材感そのままを生活に中に取り込んでみたいという新しい試みでもあります。沢山の方に好評をいただきながら改めて竹の可能性を感じちょりますが、ステファンさんが制作した竹家具動画も、思いがけないほど多くの再生回数で、まっこと今回の竹の試みへの世界的な関心の高さに驚くほどながです。竹は毎年季節になれば地下茎から、どんどんと新しい命が生まれます。そもそも変わり続ける事に長けた存在であり、変わり続ける事で竹は無限になるがです。


ストックホルム・ファニチャー・フェア(Stockholm Furniture Fair)

竹虎四代目(山岸義浩、YOSHIHIRO YAMAGISHI)


ストックホルム・ファニチャー・フェア(Stockholm Furniture Fair)は、北欧最大の家具国際見本市との事ですがスウェーデンはじめ北欧の国々は、インテリアなどのデザインが洗練されちょって、前々から憧れの土地ではあったがです。外が雪で閉ざされる生活環境なので、室内をできるだけ楽しく快適に、毎日をすごせるように家具やデザインが発展してきたと聞きますけんど、さすがに寒さが高知とは全く違いますぞね。会場であるストックホルムスメッサンまで駅から徒歩で数分ですが、この間にも、滑りそうな道路には雪が降っていました。まっこと今日はいつもの竹虎の里のマフラー(いわゆるタオル)を首に巻くだけではなくて、祖父の愛用しよった毛のマフラーを持ってきて良かったぜよ。


ストックホルム・ファニチャー・フェア、竹虎四代目(山岸義浩、YOSHIHIRO YAMAGISHI)、Stefan Diez


今回の竹家具のデザインを担当して頂いたドイツ人、ステファン・ディーツ(Stefan Diez)さんに久しぶり再会しましたけんど、会場に到着されたと連絡があってから、なかなかジャパンクリエイティブのブースには現れてくれないのです。確かに広い会場ではありますが、それにしてもおかしいにゃあ。そんな風に思いよりましたが、実はステファンさんは超人気のデザイナーさんで、あっちの会社、こっちの会社で意欲的に活躍されよりますので、それぞれのブースから、なかなかコチラまで辿り付けずにおったのです。


こうやって現地に来させてもらって初めて気がつく事があるのですが、こんな多忙なステファンさんが良く二度も高知までお越しいただけたにゃあ。改め感謝の気持ちがわき上がってくるがです。


雑誌「ELLE DECOR」取材、Stefan Diez


ちょうど日本から雑誌「ELLE DECOR」さんに取材にお越し頂いちょりました。ステファンさんは編集の方と早速展示されちゅう竹ベンチに腰かけて話されるがです。そもそも竹で作ろうとした最初から色々と質問があったのだと思います。こじゃんと長い時間竹ベンチでの取材は続きよります。


この展示場には家具や照明、テキスタイル、インテリア小物など、700社以上の会社様の様々な展示があったがですが、会場をくまなく歩いてみても、これだけ沢山の参加企業があるのに竹を使うたものは、ほんの極一部に限られていて、ほとんど見当たりません。当然ながら、ここまで大胆な竹の設えは、かなりのインパクトがあって、会場に来られる方の注目を集めるには十分のパワーがあると思うたのですが、想像するよりも来場の皆様の竹への関心の高さを新鮮に感じるのですぞね。


美しい竹との出会い

竹虎四代目


虎竹の竹林で素晴らしい色付きの竹に出会いました。淡竹特有の白く粉のふいたような竹表皮の下に、磨けば燦然と輝き出すかのような虎模様が見えよります。このような竹が、この山から沢山伐り出され、運び出されていきますけんど、ちょうど先月末になりますが、今年度の虎竹の伐採は一段落付いたところでした。


竹は凛として何ともいえない存在感で真っ直ぐ空を目指して立っちょります。アジア全域に広がっていて、それぞれの地域で発展してきた竹、日本での竹は大陸や、南方系から伝わった技術が、独特の細やかな感性で磨かれ竹の極みと思わせるまで昇華した感があります。美しい四季も竹文化に大きな影響を及ぼしちゅう事ですろう。虎竹の色付きも同様です、四季の移ろいがあってこその自然の意匠なのです。このような日本の竹が広く認められちゅう事は、まっこと嬉しい事です。意外に思われる方も多いですが竹はイネ科です。だから美味しいお米の実る日本の風土は竹の生育にも最高です。世界一の品質の竹が育まれ、豊富にあるからこそ、その竹から素晴らしい作品が生まれてきたのだと思います。


竹虎では、もう30年も前から「21世紀は竹の時代」と言うてきました。そんな竹の時代の中で、少しづつ自分が感じている変化は、小さな虎竹の里にも、大きな時代のうねりとなって、もう、そこまで迫ってきちゅうがです。


Stockholm Furniture Fair(ストックホルム国際見本市)

竹虎工場、Stefan Diez、Wataru Kumano、大谷宗平


ジャパンクリエイティブの活動の中で新しいプロジェクトに選出いただき、昨年より2度来日されたドイツ人デザイナーのステファンさんと沢山の方の協力を得ながら、竹を使うた新製品作りに取り組んできたがです。スタートしてから時間のない中での試行錯誤でしたが、まっこと去年の夏の暑い頃から開始してアッと言う間やったですちや。早くも、今回の竹家具の発表の場であるStockholm Furniture Fair(ストックホルム国際見本市)ぞね。


どっぷり竹の世界にいる自分が見ても竹というのは木でもなく、草でもなく、独自の竹という孤高の存在で、モノ作りと言う観点からしても本当に魅力的な素材やと思います。ところが、その反面非常に扱いが難しく、予想だにしない手間のかかる素材でもあるがです。最初は、まったく乗り気ではなかった今回のプロジェクトに参加させて頂く事になったのはお越しいただいた方々の伝統工芸、地域産業を盛り立てたいという気持ちと自分の持つ危機感が合致したこともありますぞね。また、自分達の竹への見方自体をもっと自由にしたり、思い込みにしばられてしまっている心を解き放したり、何かできるように思うたがです。


竹虎四代目(山岸義浩、YOSHIHIRO YAMAGISHI)、Stefan Diez、Wataru Kumano、大谷宗平


海外から日本を見た時のイメージには竹が強く印象づけられちょります。和の文化や伝統に深い関心や興味を抱かれる方も多く、そのような方々にとって竹とは未知な素材でもあり、また、憧れの素材と言っても良いのではないかと感じているのです。海外では竹がアート作品となり芸術品として受け入れられ、ずっと高い人気を誇っていますし、以前もアメリカから造園業者の方が見学に来られちょりましたが、庭に植えたり、鉢上としたりして観賞用の植物としても、竹は好まれて使う事が多いそうですちや。


毎年のように海外の工房から竹の仕入れのために、虎竹の里にお越し頂く尺八作家の方もおられますが、作家ご自身の素晴らしい技術や、音楽的な関心も当然の事ながら、これが日本伝統の竹の楽器だからこそ欧米の方々にも、特別な好奇心を持って広く受け入れられちゅう面もあるように思うのです。けんど、そんな竹だからこそ、その竹の持つ魅力を最大限に発揮しながら、今までになかったモノ作りを目指すという事は難しく、海外のデザイナーの方が竹をどう使っていくのかは、自分としても本当に興味があり、完成を心待ちにしちょりました。


竹虎工場、竹虎四代目(山岸義浩、YOSHIHIRO YAMAGISHI)、Stefan Diez、Wataru Kumano、大谷宗平


北欧最大級の家具国際見本市、ストックホルム・ファニチャー・フェアは、ストックホルムデザインウィークに一環として開かれるそうです。世界から700社もの企業が参加する見本市は、一体どのような展示があるのか想像するだけで、こじゃんと楽しみぜよ。今回の竹家具は色々な制約の中で一つの形にしちょりますので、必ずしも思い通りのものという事でもないかも知れませんが、日本から出た事のない自分達にとっては大きな意義のある一歩であり、竹をダイレクトに感じでもらえる展示会になると確信しちゅうがです。